色のない緑

ゲーム、アニメ、本の感想など書きます。主にTwitterの補完的な記事です。

『ミッドサマー』を観た

現在上映中の映画『ミッドサマー』を観て来ました。

鑑賞直後の自分の感想は以下のとおりです。

しかし、余韻に浸りながら感想を書いているうちに、この考えを改めることになりました。


映像だから伝わる作品

この作品は映像だからこそ伝わるものがあります。

本作品は非常にグロテスクでアダルトなシーンを多く含みます。
人が崖から飛び降りて顔面が破壊されるシーン、他人の陰毛が料理の中に含まれるシーン、歌う女性達に見守られながら恋人でもない女性とセックスをするシーンなど、それらは多くの観客からすれば、非日常的で理解し難いものでしょう。私自身も作品の中で何度も目を逸らしたことかわかりません。

しかし、本作品が表現しようとしているのは、これらのシーンに他ならないと考えます。
ペイガニズムの祭りを郷土史のような文字ではなく、映像として表現して、生々しく伝えようとしているのではないでしょうか。

小説や郷土史と言った文字によるコンテンツは、文章を理解しイメージすることで解釈することが出来ます。逆に言えば、文章の理解力が乏しかったり、自分のイメージできない(したくない)表現は解釈出来ないと言えます。
ある意味では、読み手の能力や意図によって、製作者の伝えたいことが伝わらない可能性があるコンテンツと言えるでしょう。
しかし、映像ではそのような小説のハードルを一切無視して、ダイレクトでストレートに、観客へ伝えてきます。
本作品は、ペイガニズムの祭りをありのままに伝えようとした結果、映像の持つ性質を十二分に活かした作品だったと言えます。

社会的多数派と少数派

この作品が社会に訴えようとしている社会問題を強いて汲み取るのであれば、社会少数派へ強いる同調圧力だと考えます。 多数派の同調圧力による少数派への干渉・排除、そして多数派が自らの行為を正当化する、この社会問題を田舎町ホルガという舞台で表現しているのではないかと思います。

もし、「この映画が低俗で最低なモノだという」という評価があったのであれば、私はそれを否定します。 その評価自体が、この作品で表現している多数派による同調圧力と変わらないからです。

もし、そのような評価が蔓延した社会は、自分の理解できないものが多数派だった場合、同調圧力により自分の信じていた倫理観や価値観を捨てることを強いられ、狂気に落ちていくエンディングと同じ運命を辿るのではないでしょうか。