色のない緑

ゲーム、アニメ、本の感想など書きます。主にTwitterの補完的な記事です。

『コンビニ人間』を読んだ

第155回芥川賞受賞作『コンビニ人間』を読みましたので、その感想になります。

この作品を手にとった経緯は下記のツイートから。

本作に登場する古倉恵子や白河は周りから浮いてしまっている存在の人間だが、共感できるセリフや考えが多々ありました。 「普通とはなにか?」を問う作品だと聞いていたので、難解なものだと思っていました。しかし、決してそんなことはなく、むしろ難しい言葉を排除しつつ、共感を得られる表現が沢山ありました。

他人の悪口

バイト中の悪行を咎められた白河が辞めてしまった後、店長や他のバイト店員が白河の悪口を言うシーン。すごく人間の闇を感じました。こういうのあるあると共感しました。

このシーンはある言葉を思い出しました。それは私が前職で働いたころ、社内の人権啓発を終えた後の先輩の言葉だった。(確か、パワハラやセクハラに関するビデオを観た気がする)

「人の悪口に関する話題って盛り上がるよね。ホントはイケナイこととわかっている。だけど、他人と共感を得られやすいし、ついつい話が膨らんでしまうよね。特に飲み会とかだと抑えが効かなくなる。」

先程のシーンは、まさにこの言葉の通りだと感じました。人の悪口を言うことで他人を共感を得る。 言い換えるのなら、他人と共感を得るために人の悪口を言う。目的のための手段として考えれば、『嫌われる勇気』に書かれている「行動のために感情を捏造する」という言葉に近いものを感じました。

青年: じゃあ先生は私の怒りを、どう説明するおつもりです?
哲人: 簡単です。あなたは「怒りに駆られて、大声を出した」のではない。ひとえに「大声を出すために、怒った」のです。つまり、大声を出すために、怒りの感情を作り上げたのです。
青年: なんですって?
哲人: あなたは大声を出す、という目的が先にあった。すなわち、大声を出すことによって、ミスを犯したウェイターを屈服させ、自分のいうことを聞かせたかった。その手段として、怒りという感情を捏造したのです。
(『嫌われる勇気』33,34ページより抜粋)

この引用と照らし合わると、人の悪口を言うという行為は、コミュニティ内の他人から共感を得るために、自分は同じ考えを持っている味方だと知らせるための処世術のようなものではないでしょうか。

そして、悪口の対象が白河のようにコミュニティ内で理解し難い人であればあるほど、コンビニのように「すべてが正常化され、異物が排除された空間」であればあるほど、この処世術はより効果的に作用します。

作品の後半で、恵子と白河が同棲していることを知った直後に、店長や他のコンビニ店員が白河に向ける感情が憎悪から興味に変化していることも、「行動のために感情を捏造している」ということの裏付けになるかなと思いました。

悪いと思っているけど人の悪口がやめられないのは、この処世術が持つ手軽さや魅力的な効果が手放せないかもしれませんね。 もしかすると、人間社会はこの処世術という捏造された負の感情に縛られて作られているのではないでしょうか。

『ハーモニー』のようなディストピアを感じた

コンビニを「強制的に正常化され、異物が排除される場所」と表現していた部分にディストピアな空間を感じました。

ここは強制的に正常化される場所なのだ。異物はすぐに排除される。
(『コンビニ人間』64ページより抜粋)

まるで、最近読んだ『ハーモニー』に登場するWatchMeのように、体内を監視し異常な部分を修復する器官が備わっているかのようです。

日常生活を綴られている作品でありながら、SF小説を読んだような感想が出でくる。
今まで、ディストピアという言葉は日常では感じることはできなくて、SF小説のような現実とかけ離れていた世界でしか感じることがありませんでした。

そのため、本作で得られた体験は非常に斬新なものでした。 私が過ごしている日本の日常の一部分であること、主人公の恵子と同じような感覚を持っている、その条件下でありながらも、言語化した瞬間にディストピア的な解釈ができる文章が導き出せる。

純文学が持つ、高い文学性と芸術性がなんとなく分かったような気がしました。