色のない緑

ゲーム、アニメ、本の感想など書きます。主にTwitterの補完的な記事です。

『ハーモニー』を読んだ

伊藤計劃の『ハーモニー』を読みました。 ネタバレ多めです。

「死」を考えせられる1冊

WatchMeにより、人々が健康管理され病気に悩まされない社会は、山田 宗樹先生の『百年法』を思い出しました。
不老不死を実現している点では『百年法』の社会の方が進歩していると言え、どちらの社会も健康であり続けるという人類の進化の未来を示しているかのようでした。

私自身の病気の経験では、脳腫瘍により開頭手術を受けたことがあります。
脳腫瘍という大病を抱えたにも関わらず、後遺症なく日常生活を送れているのは医療技術の進歩の賜物だと感じています。

脳腫瘍を発見した時、すぐに入院が必要になることを先生から告げられました。
その後、MRIによる発見が数日遅れていたら命の危機に瀕していたこと、脳腫瘍を取り除くために頭を開く大手術が必要になること、手術がうまく行けば後遺症はほとんど残らないこと、治療費が高額になるが保険の適用により自己負担が軽くなること(それでも高額でしたが)など、様々なことを聞かされました。
あまりにもいきなりすぎて他人事のようでしたが、脳腫瘍による強烈な頭痛がそれが現実であることを叩きつけているかのようでした。
漠然とした不安、死がこんなにも身近にあることを感じる体験となりました。もう二度と体験したくありません。
この体験があるからこそ、WatchMeにより実現された社会、見せかけの優しさでシステム化されたものでありがながらも、病気の心配のないユートピアは大変魅力的に感じました

「権力が掌握してるのは、今や生きることそのもの。そして生きることが引き起こすその展開全部。死っていうのはその権力の限界で、そんな権力から逃げられることが出来る瞬間。死は存在のもっと秘密の点。最もプライベートな点」
(『ハーモニー』291ページより抜粋)

ここのシーン、病気や社会(WatchMe)を「権力」と例えているのが斬新で印象的でした。 「死」というものはどんな権力も寄せ付けない、人が理性的に存在するための概念なんだろうと感じました。 本作品は、様々な形で解釈して言語化された「死」について、本当に考えさせられる1冊となりました。

ユートピア」と「トァンとミァハ」

日本の未来という社会に焦点を当てた『百年法』と大きく異なり、『ハーモニー』の焦点はWatchMeにより実現された「ユートピア」ではなく、常に「トァンとミァハ」に当たっていると感じました。

「トァンとミァハ」と「ユートピア」の関係性を語る前に、私が好きな著書、岸見 一郎先生の『嫌われる勇気』から社会について語るシーンを引用します。

哲人:社会学が語るところの社会の最小単位は何だかご存知ですか?
青年:社会の最小単位?さあ、家族でしょうか。
哲人:いえ、「わたしとあなた」です。ふたりの人間がいたら、そこに社会が生まれ、共同体が生まれる。
(『嫌われる勇気』181ページより抜粋)

女子高生の頃の「トァンとミァハ」は、偽りの優しさを与え、自身の身体をリソース化しようとする「ユートピア」を憎悪していました。
先程の「わたしとあなた」を「トァンとミァハ」に当てはめてると、彼女たちの間で同じ目的を持った社会を築き、「ユートピア」という社会の中に、「トァンとミァハ」の社会が構築されているように感じます。社会の中に社会が存在する構図は、フラクタル構造のように感じました。

作品の最後の方では、ミァハが偽りの優しさで塗り固められた社会を築こうとして、トァンが憎悪するという展開になります。かつて、あれだけ憎悪してた「ユートピア」をミァハが作り出そうとしているわけです。
ここでのミァハとトァンの関係が、過去、女子高生の時の「ユートピア」と「トァンとミァハ」の関係のようです。

「トァンとミァハ」、彼女らが抱いた感情が、やがて社会を構築していく関係になる展開は、ある意味で神秘的で本作品に惹かれる要素だと思います。

そして、この神秘的な関係が、トァンがミァハを撃つことで終わりを迎えてしまうことの悲しさを引き立てるものとなっているように感じました。

トァンが抱いたデカイ感情

作品の最後で、なぜトァンがミァハを撃ったのか。こればかりは様々な感情が混ざりすぎて、今でも私自身の中で腑に落ちない感じがあります。 トァンは「キアンと父さんの復讐」と言っていますが、百合好きな自分はそれだけではないと考えてしまいます。

「だから、わたしはここでキアンと父さんの復讐をする」
「どうやって」
「あなたの望んだ世界は、実現してあげる。
だけどそれをあなたには、与えない」
(『ハーモニー』350ページより抜粋)

かつて憎悪していた社会、ミァハが嫌いなものをミァハ自身が作り上げてしまう悲劇からの解放。
ミァハが意思のない社会で生きることを可愛そうだと思った同情。
それぞれの感情の根拠はハッキリとありませんが、少なからず復讐以外の感情も混ざっているのだろうなと感じました。

「罪は償ってもらうけど最後にミァハが望んだ世界を実現させてあげる」という行為がトァンの愛情表現にしか、私には解釈できませんでした。

好きなシーン、表現

  • 231ページあたりのヌァザとトァンの会話シーン、人は目の前にある利益を過大評価してしまうという「双曲的な非合理性」という表現はなかなかしっくりくる言葉に感じた。

  • 291ページあたりのミァハ達のやり取り、「なんとなく在ったものが、空気になり、規律になり、法律になる。そういう目に見えないものが、今や私たちの身体の生理を従わせようとする。」というセリフ、私達が普段感じてることを上手く言語化出来ている思った。

  • 「ETML」でマークアップされた感情は、読み手に1つの解釈しかさせないようにする意図的な表現だと感じた。そのことが、エンディングにある記録としての感情であることを引き立ててると感じた。

『響け!ユーフォニアム』を観た

今更ながら「響け!ユーフォニアム」をdアニメストアで完走しました。
近いうちに2期、劇場版を見るつもりですが、とりあえずは1期の感想を書きます。


久美子の成長

全体を通して、久美子が自身の過去と向き合いながら変わっていく様子が繊細に描かれていると思いました。

中1の時に自分がコンクールメンバーに選ばれた際、当時の先輩から「あんたがいなければコンクールで吹けたのに!」と言われたこと。中3では「ダメ金」の結果に悔し泣きする麗奈に対して「本気で全国行けると思っていたの?」と言ってしまったこと。

中学時代の経験は、久美子が自分の存在が他人を傷つけないようにする生き方を望ませるためには十分だったと思います。 吹奏楽入部を渋っていたのは過去の経験を繰り返したくない、入部後にトロンボーンを希望したのは過去の自分から変わりたい、そのような気持ちが潜在的にあったのではないでしょうか。

受験というタスクを理由に吹奏楽をやめた葵や姉が身近にいるという状況は、久美子に吹奏楽への向き合い方と自分はどう有りたいかを考えさせる。
その答えをくれたのが、花火大会の時の麗奈だった。 この時、久美子は中3の失言にわだかまりを持っていたのだろうけど、麗奈から出てくる言葉は意外にも「愛の告白」だった。この言葉は自分の過去を受け入れてくれたと久美子は思ったんじゃないだろうか。 「特別になりたい。だからトランペットやっている。」と語る麗奈に対して、憧れを抱いていく様子が感じとれました。

そして、久美子が滝先生から残酷な言葉を受けた後、麗奈の「悔しくて死にそう」という気持ちに共感でき、ユーフォニアムが好きという気持ちに気づいたシーン。久美子が必死に追いかけてた麗奈が、久美子にいちばん大切なことを教えてくれたことには涙出そうだった。

京都アニメーションの作画

映画『Hello World』のように京都の名所が出てくるわけでもない。 にも関わらず、本作品に出てくる宇治市の場所・風景が特別のように感じるのは京都アニメーションが手掛ける描写によるものだと思いました。
また、登場人物の表情をアップで移すシーンが多かった本作品では、表情の変化を繊細に読み取ることができ、心境と密接にリンクして作品を楽しむことができました。高校生という未熟な心が移り変わっていく様子を感じました。

大変素晴らしい作品だからこそ、昨年起きた凄惨な事件を切り離して考えることが出来なかった。
今後も、京都アニメーションから素晴らしい作品が出てくることを願っています。

その他もろもろ

  • 日笠陽子さん演じる葵ちゃんの出番が後半少なかったのはちょっと残念。
  • 花火大会の麗奈の白ワンピまじで可愛い。というか久美子の口に指を当てるシーンはマジでドキドキした。
  • 普段はキリッとしてるのに、久美子と二人っきりの時だけクシャッとした笑顔見せるのは反則すぎる。
  • 11話で汗だくで練習する久美子が色っぽい。そして、麗奈が隣に来たのってそんな色っぽい久美子を見るためだろうと思いたい。
  • 滝先生の飴と鞭の使い方が上手すぎる。
  • あすか先輩にもスポット当ててほしい。2期以降が楽しみ。

【ネタバレあり】『パラサイト 半地下の家族』を観た

先日、アカデミー賞を取った『パラサイト 半地下の家族』を観て来ました。
アカデミー賞を取ったという前情報しか得ていない情報で劇場に足を運びました。
ネタバレしかないです。


風刺とコメディのバランス

作品全体を通して、風刺が非常に強く、格差社会や核問題といった現代社会の闇を表現してされていました。ブラック・コメディ作品として割り切って観れば、パク家の大豪邸で我が家のように振る舞い、パク夫人らが帰宅した途端に物陰に隠れるキム家4人の様子は、まるで寄生虫そのもので大変痛快でした。
ムングァンの朝鮮中央放送アナウンサーのモノマネは巧すぎて、思わず声を上げて笑ってしまいました。
ブラック・コメディの後に訪れる猟奇的なシーンは、温度差ありすぎて鳥肌が立ちました。全体的に中だるみすることない構成で2時間12分はあっという間で、役者の演技力も相まって映画作品としてのレベルの高さを感じました。

快楽に溺れる女

本作品で1番好きなシーンはここです。

仕事が終わらない時に吸うタバコ、テスト前日にするゲーム、私自身同じような経験に心当たりがありすぎて、規模の大きさは違えど、「自分に不幸やストレスが降りかかっている状況で快楽という甘美な現実逃避に走る」ギジョンの姿は非常に共感できました。

また、同じ快楽に溺れる女といえば、性行為のシーン。
近くに息子がいる状況でありながら、ヨンギョが夫から愛撫されて快楽に身を委ねている姿は下手なAVより背徳感があって興奮しました。 ヨンギョ役を演じるチョ・ヨジョンは、大好きな深津絵里さんに似ていて、この濡れ場のシーンは性癖にぶっ刺さりました。俺も乳首を時計回りで愛撫したい

凶行に踏み出す一線

本作品も『ジョーカー』と同じような惹き込まれ方をしました。日頃の生活で抱える不満がやがて狂気に変わり、凶行となって表現される。ネガティブで猟奇的な過程から目が離せないのは、文字通り「他人の不幸は蜜の味」といったところでしょうか。その凶行の刃の矛先がどこに向けられるのか、凶行という花火がどのような爆発をするのか気になる、このような興味は野次馬根性に近いものを感じました。

本作品を観終わって数日たった今、マイケル・サンデルの著書『これからの「正義」の話をしよう』に出てくる「功利主義」を思い出しました。行動によって得られる快楽と罰を天秤にかけて、快楽の割合が罰より大きくなるように行動することです。

人の行動にはやってはいけないことがあり、それを罪といい、罪によって被るデメリットを一般的に罰と呼んでいます。人が罪を犯す一線というのは、行動によるメリットとデメリットを天秤にかけることだと思います。本作のギテクやグンセがストーリー終盤で人を刺してしまったのは、デメリットがない――罰によって失うものは何もない、ネットスラングで言う「無敵の人」――状態が作り出した凶行だと感じました。

本作品のような悲劇が現実に起こることがないように願うばかりだと思います。

『キミノスケープ』を読んだ

百合SFアンソロジーの『アステリズムに花束を』の『キミノスケープ』を読みました。短編集の1作品目から大変エモかった。

アステリズムに花束を 百合SFアンソロジー (ハヤカワ文庫JA)

アステリズムに花束を 百合SFアンソロジー (ハヤカワ文庫JA)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2019/06/20
  • メディア: 文庫

高度な百合

本来、百合だと女の子同士のラブを表現するのが一般的ですが、本作品の登場人物は女性1人「あなた」しかいません。 強いて言うのならば、語り手と「あなた」の行く先々で言葉を残した人が登場しますが、実体が存在するかは描かれていません。
しかし彼女らは、ある時は「あなた」が歩む先々で言葉や痕跡を残し、またある時は「あなた」を恋人や母親のように優しく見守り、物語に介入してきます。「あなた」はそれを感じ、時には感情を揺さぶられ、日に日に言葉や痕跡に対して敏感になります。
この一連のやり取りは、まさに恋愛そのものだと私は解釈しました。
生身の女性二人が実在しないのに、百合だと感じさせられ、このやり取りを愛おしいく思えさせる作者の技量が素晴らしいと思いました。

孤独に対して向き合う旅

本作品では、顔も声も知らない相手のことを知りたい、感じたいという気持ちを扱っています。
それは、現実を生きる我々にも身近に在るのではないでしょうか。
SNSにおけるフォロワー、匿名掲示板への書き込み、会ったことない人ともインターネットを通じてやり取りする時代になりました。その言葉はAIによる返信かもしれないし、他人になりすまされたものかもしれない。このような現実と仮想の区別が曖昧なバーチャル化された世界では、言葉の発信源に実体が在るかどうかなんてはあまり意味を成さないような気がしてます。
しかし、このようなバーチャル化された世界でも、言葉を介して繋がっているという安心感を得ることは普遍的だと思います。
人はどのような時代においても心のどこかで孤独を感じながらも生きている。そして、その孤独を埋めるものを探すために、今日も人生という名の旅へ出る。決して、人は孤独に対して強くはないからこそ、なにかにすがって生きていることを肯定してくれるような物語のように感じました。

最後に、本書のまえがきが強烈に印象に残りましたので言葉を引用します。

いずれもSFと百合をテーマに執筆された物語ではありますが、それぞれの作家たちが描く人間と世界の関係性、人が人に向ける感情についての切実さは、あらゆるもの同士が接続できるか故に何もかも不確かになっていくこの時代において、他のどんな文芸にもひけをとらない普遍的な魅力であると、強く実感しております。
(『アステリズムに花束を』6ページより抜粋)

『トリトンの火』を読んだ

ダイレンカリアのC94作品『トリトンの火』を読みました。 www.melonbooks.co.jp

当サークルの作品に触れるのは、『シルエット』『Android』『百合色50%』に続いて4作品目です。

最初に感じた違和感

私が本作品を読み始めた時の第一印象は、"わからない"という違和感を感じました。 読み進めていくにつれ、その違和感が次第に大きくなっていった。 124ページあたり――神戸の花火大会で千月と凛々子の関係が悪化してしまうあたり――まで読み、 作者の雨宮しずれ氏 @na_naiyou に、この違和感を思わずリプしてしまいました。

ただ、本作品を読み終わった後では違和感が解消され、雨宮氏の思惑通り(?)となりました。 (ここから先はネタバレを含みます)


神戸の情景と思春期

作中では、神戸の町並みを細かく描写されています。

からんと、下駄を鳴らして凛々子は再び歩き始める。私たちは第四突堤の対岸にあるポートアイランドへ向かって移動していた。 間もなく日は沈もうとしている。お互いに映し合う群青色の空と海が、赤銅色に染まる水平線上の帯を上下に挟む。浜からは潮の香りが、山からはひぐらしの鳴き声が寄せては返し、暮れなずむ黄昏に混ざり合う。盛夏の割に日が傾くと今日は涼しく、生暖かい潮風に頬を撫でられる。
(『トリトンの火』114ページより抜粋)

私自身、神戸は仕事やプライベートでも何度か足を運んだことがあるので、風景を鮮明にイメージできました。

本のカバーの後ろ袖に書かれている雨宮氏のプロフィール欄でも、「山と海と、花と緑の美しい街・神戸。その素晴らしさが少しでも伝われば幸いです」と述べている。 どちらかというと、町並みを細かすぎて、話のメインが人物から風景に行きそうになると思いました。 しかし、これだけ詳細な描写されている理由は、思春期真っ盛りの千月や小春は周りのことに敏感であることを示していると解釈しました。

自分の感性を磨き、役者として成長したい。演劇部という表現の舞台で生きる彼女たちは、そういう感情を無意識のうちに抱いているのかなと思いました。 風景と登場人部の心情の描写のバランスが調和して、良い作品にまとまっていると思います。 もちろん、風景以外にも登場したクラシック音楽や小説、様々な作品から得られるインスピレーションも彼女らの成長に繋がっているのかなと思いました。

千月と凛々子の関係

本作品を読み終わった直後、花火大会でギクシャクなってからの凛々子との関係が物足りなさを感じました。 ちゃんと仲直りもしたし千月自身が凛々子の恋愛を応援している描写もあって後腐れない感じが、千月自身が凛々子に対する恋心をすぐに捨ててしまったように思えてきて、なんとなく納得できませんでした。

しかし、読み返すと花火大会での千月と凛々子のシーンが気になりました。

凛々子の示唆することはわからないでもない。無警戒のまま男子と多くの接点を持つと、彼らに告白する機会を与えてしまう。私はなんとなくそれを学習していた。そして無意味な不幸を生まないためには、それらを未然に避けるべきであることも知っていた。

(中略)

「たぶん世の中にはたくさんの種類の『好き』があって、彼らの言う『好き』は私の思う『好き』と違うんだと思う。この人となら今すぐじゃなくてもいつか分かり合えるときが来るだろう、なんて予感が少しでもあればいいんだけどさ。そういう感覚って今までにあったことないんだよね」
「ふぅん」
凛々子は足元に目を伏せていた。頭の後ろで結わえた髪が持ち上がり、白いうなじがあわらになる。私は凛々子に今までと違う感情を抱いていることを自覚しつつあった。でもそれは凛々子だけに対する特別な感情ではないということも、なんとなく分かっていた。
(『トリトンの火』116,117ページより抜粋)

きっと千月は、一時的な感情で人を『好き』になることは相手にも失礼であり、中途半端な感情で作られた関係を嫌っており、その感情を凛々子に向けていることを気づいていたのでしょう。だからこそ、花火大会でギクシャクした関係になった後、これ以上に凛々子に自分の踏み込まないようにしようと考えたのではないかと思いました。

千月と小春の関係、芯の強さ

メインキャスト4人の中で比較すると、凛々子・一花が演者としての才能に恵まれている。一方で、千月と小春はお互いに似たような芯の強さを持っている。

千月が小学6年生で学芸会をする機会があったときに、やはりクラスメイトとギクシャクした経験があったことを示している場面。

他の誰かを蹴落として今の役を得ている以上は、それに見合ったレベルの演技を果たさねば周囲に示しがつかないのは、当然のことであった。私は今、あの頃の悔いを晴らすべきときなのだと思った。
(『トリトンの火』52ページより抜粋)

また、千月と凛々子の関係がギクシャクしている時の小春のセリフ。

「誰かに依存していると、その人がいなくなってしまった途端、立ち行かなくなる」
(『トリトンの火』167ページより抜粋)

そして、鈴蘭祭を目前に2度目の登山に行く千月と小春のやり取り。

「私一年の頃、地下と一緒んクラスだっただけど、私が主演に選ばれちゃってさ」

(中略)

「好きじゃないんだよねシンデレラって。ま、それは置いといて、劇はうまくいったけど、私にとっては成功じゃなかった」
小春先輩は空になった紙コップの底を折り、ぺしゃんこに潰してまた二つに折る。
「私はチカの才能を潰したくないんだよ。どんなに優れたものを持っていても、それは人に認められなければ何の意味も成さない」
一花先輩の花形としての存在は、小春先輩の下支えによって成り立っているのか。
「あの…一花先輩のことを否定するわけじゃないですけど、小春先輩が一番役者としての適性があるって、菜々美さんが言ってました」
「本人にも同じこと言われたよ。でもそういうのじゃないんだよね。才能とか、適性とかの問題じゃなくて、ほんとにやらなきゃいけない理由のある人がやるべきだよ」
(『トリトンの火』249ページより抜粋)

千月が悔いを晴らすためにリンフォーネ役に打ち込んでいたが、実際それは彼女の本心ではなかったのかもしれない。本当は、小春が一花を支えているように、凛々子のことを支えたいと思っていたのではないかと考えました。 小春の演者としての、人としての在り方に千月は惹かれていったのかなと思いました。

"アンバランス"の中に存在する調和

作中では、秋奈が書いているホームページが『トリトンの火』で登場しており、秋奈と千月は以下のような会話をしています。

「なんでトリトンの火なんですか?」
海王星の衛星だよ、トリトンって」
「それは知ってます」
ずい、と私は身を乗り出す。
「火、の部分は何ですか」
音が止み、曲が途切れる。
「火は、火だよ」

(中略)

トリトンはね、いつか消えてなくなっちゃうの」
昔話でも始めるような口調で、語り出す。
海王星の公転と逆向きに回っているせいで、トリトンはその動きにブレーキがかかって、海王星へ向かって落下し始める。そのとき、ある一定のラインまで軌道が下がると、トリトン海王星潮汐力に耐え切れず引き裂かれてしまう運命なの」

(中略)

「永久不変のように見える夜空の星にも私たちと同じように命があって、始まりと終わりがある。ただその尺が違うだけで、儚さやかけがえのなさは変わらない」
(『トリトンの火』222,223ページより抜粋)

大変心に刺さりました。今を生きる現代人にももちろん当てはまりますが、青春小説の本質を突いているなと。 違う者同士が惹かれ合い、そして惹かれあったがゆえに――作中で述べているトリトンのように――、いつかは滅びに至る運命でもあっても、なんとかバランスを取り、今を生きる姿を切り取る。 最初はギクシャクしていた演劇部やメインキャスト4人の関係性がそこに当てはまっていて、神戸という舞台で生きる彼女らの青春にかけがえのなさが強調されているのを感じました。

その他良かったところ、気になったところ

  • 本作品に登場する楽曲、花(言葉)について
    • ロケ地が書いてるのは聖地巡礼オタクにはたいへん助かります。 次、神戸に行った際は、回ってみたいと思います。
    • 花言葉も書いてありました。確かに、情景の描写で花がたくさん出てきたけど、花言葉までは気にしなかった。 2周目読む時は、花言葉まで意識して読みます。
  • イラストを担当した涼枝氏@sccsuzuedaが描いたメインキャスト4人の中だと、千月が1番好きです。カバー袖に描かれている千月、耳に髪をかけるしぐさがセクシーでした。あと、表紙の凛々子の衣装はへそが出ててエッチだな思いました。
  • 舞台『デビルグラス』の配役と人物についても考察したかったけど、『デビルグラス』の内容がイマイチ頭に入ってこなかったので、次は重点的に読み返してみよう。
  • 千月と凛々子がラブラブになる物語も読んでみたい。